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This article was written on 10 12月 2015, and is filled under - 哲学勉強会, イベントレポート, 企画ノート, 論考.

「共通概念」振り返り|レポート

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勉強会を育てる勉強会としてのはじめての会を、ドゥルーズ『スピノザー実践の哲学』(第4章 ※共通概念)を課題テクストとして開催しました。

ここでは会の振り返り(成果と言いたいですが、控え目に。。)として課題テクストの読解から得られた「共通概念」概念の実践的価値といったら大げさになるかもしれませんが、そのあたりのことを念頭におきつつ課題文章の解説をしてみます。そのあとで「共通概念」の課題というか、それでうまくいくのかということを考えた内容があるので少しだけふれてみようと思います。

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【共通概念の実践的価値】

この会の準備に取り掛かるときに、(2、3回パラパラ通して読んだ後に)下調べとしてドゥルーズースピノザ(以下DーS)の共通概念についてのWEB上の記事を読んでみましたが、何か違うんだよな、というか、どうもピントがずれているものが多いと感じました(思い上がり!)。会が終わった今では、ピントがずれているというよりは片手落ちとか関心のあり様の違いなのかなという風に思っています。

それがどういう部分なのか、自分なりに整理できたことをテクストの内容を振り返りつつ紹介したいと思います。

共通概念という呼び名は、それがすべての人々の精神に共通だからではなく、まずはそれが身体または物体相互に共通ななにかを表すところからきている。

1パラ目の文章はこんな感じでスピノザの共通概念の定理(!)から内容を引いてくるところから始まります。共通概念っていうのは身体のことなんですよ、物体ー身体が合わさるときの表現なんですよ、という感じですかね。(この共通概念の守備範囲が”物体”とされているのはスピノザの哲学にとって結構重要なポイントな気がします。)

2パラ目では1パラ目の定理からすこしだけ踏み込んで、物体や身体っていうのは構成関係で特徴付けられますよ、ということを言っていて(※1)、さらに1パラ目の定理にでてきた「共通」という言葉が2種類(構成的合一、構成上の統一)に使い分けられます。このあたり(物体/身体→構成関係、共通→構成的合一/構成上の統一)の言葉のブレイクダウンで(DーSの)ものに対しての相対的な見方みたいなものをパッとイメージさせるのはうまいことやるなあという感じです。あと2パラ目では「共通概念が精神にとって共通なのは、その身体がそうした構成的合一や構成上の統一にかかわっているかぎりのこと」というちょっとわかりづらいセンテンスが出てきます。ここが個人的には共通概念のわかりづらさの要所でした。1パラ目では共通概念は一般的だと述べられていて、2パラ目では(ある種生きていて)関わっている限りのものだと語られるわけです。この両立。これは共通概念の面白いところであり、運命的なキズをおっているところな気がするわけです。

続いて3パラ目、ここでは2パラ目で書かれている構成関係の構成的合一の条件、その各体(私たち)にとって「相違や対立」がはじまるポイントを理解することについてかなり実践的な方法が語られます。(一般性の大きい共通概念から小さい共通概念へ粒度を細かくしていけば私たちと何かが噛み合わなくなるポイントがわかる)(※2)このパラグラフは1,2パラ目のどちらかといえば哲学的なフォーマットのトーンの話から実践(私たちが生きていくという)の次元に話がうつっていくちょうど間のパラグラフなのでここで頭を切り替えないと、次のパラグラフで、あれっ、何の話をしているんだっけ、ということになるかもしれません。

そこから、4、5パラ目あたりがこの「共通概念」の項の盛り上がりどころになります。共通概念は私たちが生きていく中でどう役立つのか、どうやって共通概念はつくられるのかということが語られます。まず3パラ目で書かれた「相違と対立」のポイントをみつける方法が共通概念の「適用の秩序」という言葉で言い換えられて、その場合、共通概念は所与のもの(もう出来上がっているからこそ使われるもの)なわけだから、そもそもその共通概念が「形成される秩序」はどんなものなんだろう、という流れです。まず4パラ目では、その形成の誘因(契機?)のことが書かれています。

この私たちは、みずからの身体と適合する体と出会うとき、そこにある何が自身と共通であるかはまだ十全に認識するにいたらなくとも、すでに受動的情動としての喜びの感情を味わっている。

嬉しくて元気なときはその喜びを引き起こしたものと自分との間に共通なもの(構成的合一、構成上の統一)があるという概念を形成(理解)しうる力を持つ、悲しいとそういうことが出来ない、ということです。これはかなり素朴というかシンプルな世界観だと思うんですが、私たちが生きていく中で(生まれながら、ではなく)ものを理解していくための契機で他に使えそうなものが他に何かあるだろうか、というのは気になるところです。(※3)こうして既定された共通概念の「適用の秩序」と「形成の秩序」が<理性>の定義と重ね合わされます。(※4)私たちは生きていく中で共通概念を獲得し、その中で段々と<理性>というものも理解されてくる、更にその<理性>自体から能動的な感情も生まれてくる、という感じです。(ここで理性という単語が<>で括られているのも何気に大事なんでしょう。the 理性)5パラ目では共通概念が形成の秩序の中で一般性を拡大していく、という話になっていきます。たしかに、共通概念は一般性を大きくしていかないと実際に生きていく中で使える局面が限定されてされてしまうので、そういう話にしていくのはわりと納得できるところです。同時にあまり一般性が大きい共通概念だと実際にはあまり使えないものになってしまいます。

とりあえずのまとめに入りますが、私が冒頭にふれた片手落ちや関心のありかの違いというのは、上記で説明を試みてみた実践的な価値の部分です。「共通概念」の項では、この後6パラ目以降に共通概念の理論的重要性というかスピノザの幾何学的方法における位置づけみたいなものが書かれることになるのですが、アカデミックな場ではこういう話題の方が歓迎されるのかな、とかいうことを感じた次第です。まあ自分が調べた狭い範囲の中で感じたことなので実際はそんなことない、という方がいたらコメントもらえたりすればとてもありがたいです。
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    ※1 会の中ではここで扱われている「構成関係」の表現方法はいくつかあるだろう、みたいな話もでてきました。個人的にはツリーやネットワークみたいなものしかイメージできていなかったのですが、リズムとかもそうか?ということをすやまさんが伝えてくれました。たしかに、ものが動く仕掛けを考えるためには、登場人物(人物には限らないけど)とそれが動く順番がどっちも揃っていないとダメで、静的な表現と動的な表現を合わせて考えないと不十分なところがあるでしょう。そういう意味では今回のテクストでドゥルーズが取り上げている「構成関係」は、「運動と制止」という言葉を用いて動的な表現を連想させてもいますが、読む方にしてみればいくつかの機能をあたえられたブラックボックスになっています。このあたりの詳しい内容はたぶんどこか他の文章で扱っていそうではあります、あれば読んでみたいです。
    ※2 「共通概念」の項では触れられていない話ではありますが「不適合」と「適合」についてはもう少し考えることがありそうです。それは、ある構成関係にとって、特定の結合ー合一がクリティカルなものかどうか、ということです。同じ本の第4章「個体」の項にも「ある場合には、その構成関係自体を破綻させてしまうような不適合」のことが書かれています。このあたりは(私の知っている範囲では)ソフトウェア工学とかの結合度の話に似ている気がします。結合度が高ければ高いほどある結合関係の破綻はシステム全体の動作に影響を及ぼす、という話題です。
    ※3 そういう契機として単に「喜び」というものを設定すれば、いま生きている私たちがうまくいくようになるのか、というのはまた別の問題ということになるんだと思います。何しろ既存の枠組みが存在する世界で生きていくわけですから、その喜びは「いまの社会的に」適切なのか、という(スピノザの語るような倫理ではなく)道徳的な評価が別軸として必要になってくるのかもしれません。ただそういう別軸を意識すればするほど共通概念から離れていってしまう気もするし、ちょっとこの辺りはむずかしいと感じるところです。
    ※4 ここで面白いなと思うのは、共通概念の適用の秩序が受動的情動という言葉に、形成の秩序が能動的な感情という言葉に対応づけされるようなニュアンスで書かれることです。出会いを秩序づけようとする適用の秩序の方が普段私たちがふれている能動的という言葉づかいにどちらかと言えば近い気がするのですが、ドゥルーズースピノザにおいて能動的というのは、意識的にものを選びとっていく、ということではないということになります。ではどういうことなのかというのは、同じ本の中では「開展」や「自由」の項にも書いてあって(というかその箇所に限らずこの本の中にはよく出てくる話題ですね。)、あらためて読み返してみようと思います。

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【共通概念は十全な観念?】

ここまで書いてきたように「共通概念」の項ではD-Sが実践において倫理を実現するためのかなり具体的な枠組みが語られるわけですが、それでもやっぱり気になるのは、実際に私たちが共通概念を使おうと思ったときに(本文の中では「形成の秩序」「適用の秩序」として書いてあった箇所の実際の運用で)出てくる課題の部分だったりします。

その課題は共通概念は十全な観念である、とされる箇所に関わります。共通概念は十全な観念なんだから、何かが自分と適合するものかどうかの切り分けを可能にするとされます。ですが、その十全な観念の十全さを体感させてくれるのは、あくまでその共通概念の運用の中で私たちが喜びの体感を得たということで裏づけられることになるでしょうから、「実際に使ってみて」うまくいくかどうかを確認した後でないとそれが使えるか使えないかはわからない、ということになります。それに、実際に使ってみて一度うまくいったからといって、今度は失敗してしまうこともあるでしょう。そうやって試験を受けながら段々と精度があがっていく私たちの中での構成関係の認識に十全という言い方をするのは違和感があります。「十全」は私たちが何かをなした後でやってくる結果としてしか得られないんじゃないかと思ったりします。(このあたりのことはラトゥールの本の中で書かれている実験室における「自然」の身分についての話が思い出される中で考えたことでもあります。)

この話題を掘り下げていくためには、なんとなくドゥルーズお得意(?)の潜在性の概念のことをもうすこし整理していかないとわからないのかもな、という気がします(見当違いかもしれませんが、、)。

とりあえず個人的に今は「構成関係」のことが気になっています。複数の要素が集合自体を表現する、ということはどういうことなのか、その表現の方法自体はどんなものがあるのか。

まずはどこから手をつけていくかを考えないと。。

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テキスト:佐々木貴史
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【哲学勉強会】ドゥルーズ ── スピノザの共通概念と勉強会を育てるためのフレームワーク
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哲学ノ勉強会ハジメマス ── ドゥルーズ「本能と制度」序文(2013.6.13)


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